6 「ペレロポンの手紙」
 岩波書店は49年11月から月刊のPR誌「図書」の発行を始めた。現在も続いていて、2001年4月号は第622号である。表紙には終始「古典美術」が使われ、表紙裏にはその解説文が付けられている。この形式の発案者を特定することは出来ないが、矢崎と親交があり、絵心をもった小林勇ではなかろうかと思う。選定と解説は最初児島喜久雄であったが、50年児島の死去以後矢崎によって引き継がれ、第10号から第43号までが矢崎の仕事であった。第43号は53(昭和28)年4月号、発売は1日、その7日後が矢崎のユーヴァーガングである。
 矢崎は、日本の子ども達に古今の世界の美術に親しんで欲しいと熱望していた。同じ思いを持つ者は少なく無かったが、敗戦後の出版界には用紙問題、販売量等の制約が多く画集出版の実現は困難だった。安井曽太郎と矢崎の夢が実ったのは51年のことである。「少年美術館」全12冊(岩波書店)が、全国の殆どの小・中学校の図書館の書棚を飾った。55年に「少年世界美術全集」が実業之日本社から出版されるが、編集者達は亡き矢崎美盛の名を監修者として掲げるのだった。「少年美術館」の企画も小林勇の決断によるところが大きかった。故岩波茂雄所有の熱海「惜櫟荘」での編集会議は毎月数日間はカンヅメ、矢崎と澤柳大五郎の解説を口述筆記する日々だったと担当の岩波書店編集部員は回想する。
 この頃、鎌倉の長尾美術館見学に東大生等を引率して行った矢崎は、館内でフランス人の研究者に出会う。ドイツ語が堪能なことは承知していた学生達は流暢なフランス語を駆使する矢崎に驚愕、唖然とした。この場面に遭遇した一人が辻(旧姓後藤)佐保子=辻邦生夫人である。

 矢崎のユーヴァーガング、カロンに導かれてのアケロン川の川越えを痛切に悼んだ一人に野上弥生子(1885〜1985)がいる。矢崎との交友の契機となるのは法政大学か岩波書店あるいは両者、さらには全く別の機会か確定できない。しかし少なくとも30年代には夫妻同士は昵懇の間柄になっていた。

 早くも、53年5月号の「図書」に弥生子は、「矢崎さんの思い出」を書いている。(「野上弥生子全集 第21巻」にも載せられた)

野上弥生子と長男素一の写真
野上弥生子と長男素一 1935年頃
野上弥生子全集(岩波書店)から

 「…矢崎さんの話がでる度にまた屹度噂されるのは河野(与一)さんでありおふたりともまだ独り身の気らくさでいつも行動をともにしていらした。同性愛だなんて私が親しい悪口をいっていた。長男(素一)の旧制福岡高校入学と矢崎さんの九州大学への赴任が重なったので東京駅もいっしょに立ち、福岡でも同じ下宿に置いてくだすった。…お世話になったのは長男のみではない。その後野上(豊一郎)が法政をやめさせられている間にしばらく籍をおいたのは九大で、お講義に行くたびに矢崎さんの友情が待っていてくれたのは彼のなによりの悦びであった。」
 「後で聞けば、矢崎さんはすでに運命を知っていらしたのである。『慶応』でとって渡されたレントゲンの写真をそっと開封して、お医者さんの書きこみを読まれたのだという。この話は私にギリシャ神話の『ペレロポンの手紙』をふと思い浮かべさせた。…自分の死を伝える使者となりながら、知らぬふりで、写真をとどけなければならなかった。こんな深刻なことは、それこそ小説にもめったにないであろう」
 「白いものの交る髭が頬から顎にかけているのが文人画の仙人めいて、すでに地上のもののようには見えなかった。落ち合った河野夫人とご一緒しながら、暗涙を胸に飲みこむ思い…」「おくれ先だつ露のいのちでこんなことをいま書いている私の追憶を、そのうち誰かが書いてくれる日も遠くないであろう」。

 弥生子はこの3年ほど前に夫豊一郎を失なっていた。「野上の突然の死よりいっそ諦めがたい」とも書いたのである。弥生子は、36年から書き始め、戦争中中断していた大作「迷路」の完結をめざし、雑誌「世界」に発表しはじめていた。さらに政治、社会、平和問題に対しても静穏ではあるが毅然としたプロテストを行いつつあった。「秀吉と利久」「笛」「鈴蘭」さらに「森」等々の秀作を残した弥生子の「追憶」が書かれるのは、85(昭和60)年、矢崎に遅れること32年である。
 生涯の親友河野与一の司式による告別の式は、東京青山学院のチャペルで、4月10日に執り行われた。東京大学総長の矢内原忠雄が弔辞をよせた。参列した多くの人々は遺影に、あるいはイエスを、あるいはソクラテスを、あるいはレオナルド・ダ・ヴインチを観た。今、矢崎美盛は、児島喜久雄とともに、東京のさくらの名所「梅窓院」で休息のときを過ごしている。

                             一一終わり一一