5  「アヴェマリア一マリアの美術」
矢崎美盛著「アヴェマリア」の表紙 家族8人は太平洋戦争下を福岡で過ごした。戦中・戦後の食糧難は容赦なく一家を襲ったが、夫妻は友人、知己にも支えられながら逞しく危機を克服していった。
 43年、アッツ島で山崎保代大佐以下が「玉砕」した。山崎は山梨県南都留郡禾生村(現都留市)出身で県立日川中学校では矢崎より3年先輩に当たる。ただし山崎は2年終了で陸軍幼年学校に入学してしまったので矢崎とは直接の接点はない。
 郷里、母校は言うまでもなく日本国中が異様な興奮に陥入っていた。

 そうした情況下、矢崎はわが国美学・美術史学者にとって「聖典」ともされる名著「様式の美学」の執筆に精魂を傾けた。間もなく児島喜久雄の装幀に飾られ弘文堂から出版された。高い水準の内容は、無念又も私の理解の埒外にある。
 他に「哲学講座」の中の「唯物論史」(1938年斉藤書店)、「世界思潮」に収められた「啓蒙思潮」、「図像学」(何れも刊行年月、出版社不明)等の著作がある。

 1947年、矢崎は、「三太郎の日記」で広く知られていた阿部次郎に招かれて東北(帝国)大学講師を兼務することになった。河野与一や村田潔という友人がいた仙台での集中講義を大いに楽しんだ。
 1948年、東京大学美学・美術史学科の主任教授児島喜久雄は定年退官を迎えた。(約10年前、増穂町出身の中込忠三が、八田村生まれの夭折の画家手塚一夫の遺作展を西田幾多郎等の支援を得て開いた時、『彼こそ真の画狂だ』との評を朝日新聞に寄せたのが児島喜久雄)
 児島の後任となったのが矢崎である。53年のユーヴァーガング(ドイツ語:川や山、峠等を越える。別の世界に行く=「死」を指す)までは5年間、研究、教育、講演、著作、編集、監修等々獅子奮迅、嵐にも似た日々が続く。そうした中で書き上げられたのが「アヴェマリア」(1953年岩波書店)である。中村研一との対談「絵画のみかた」(1950年岩波新書)はこれより早く上梓されていた。
 あわいベージュの表紙にムリリヨの描く「無原罪の御孕み」を配したこの書は、岩波書店としては画期的な装幀であった。画中のマリアはまさに「聖処女」、やや上目づかいに大きな瞳を開き、何びとをも魅了し尽くすであろう美貌の乙女として表紙の大部分を占める。ある人は、矢崎はこのマリアに亮子夫人を重ね合わせていたに違いないと言う。
 任意のページから一節を引用して、この書の持つ「空気」、著者矢崎の「想い」に触れてみたい。
 「この『被昇天』の表現には、画家や彫刻家にとって、非常な困難が存するからであります。すなはち、前述のように、ここに表現さるべきものは、被昇天であって、昇天ではありません。マリアはキリストのように自分の力で昇天するのではなくて、むしろ他者の力によって昇天させられるのであります。ところで、どうせ天へ昇ることでありますから、一般 に、昇天する人物の身体が空中に浮かんでいる有様を表はすよりほかに仕方はないでしょう。しかし、それだけでは、自力による昇天か、他力による昇天か、区別 がつきません。それ故に、マリア被昇天の場合にはキリスト昇天の美術的表現の方法を、すぐに適用することが出来ないわけであります。…」「マリアの死(コイメーシス=ドルミテオ)一被昇天(アッスムプテイオ)一戴冠(コロナテイオ)と続く栄光表現の一連は、もとより、彼女の昇天を中心として内面的に不可分的に結合した一全体であります。そして、それは、マリアの神性化(アポテオーシス)の高揚に伴って、マリアの神性の証拠として、段々と凝結して来た確信の表現であります。…」
 文体をいわゆる「です・ます」体とし、語りかけるがごとくに叙述する心優しい矢崎の配慮が行間にも溢れている。しかし、矢崎は、53年12月発売された本書を自ら手にすることは出来なかった。


[ # 採録者注:ムリリヨ作「無原罪の御孕み」