2  アインシュタインと
 旧制一高、東大を通じて矢崎の学問的関心は、三つの方向一それは究極に於いて相い接するのだが一に向かっていた。一つの方向は、カント、フイヒテ、シェリングと継承、発展した「ドイツ観念論哲学」の大成者であるGeorg W.F.ヘーゲル(1770〜1831)への接近であった。第二の方向は、彼の中学時代からの密かな志向だったと類推される古今・東西にわたる文芸とりわけ美術への探求である。第三は、前記の二つの方向を可能とさせる基本的・必須の条件である諸外国の言語一古典語を含んで一の習熟である。
 彼が東大の大学院を卒えたのは1922(大正11)年、27才になっていた。大学、大学院時代の生活を知る術を殆ど持たない。生家を継いだ長兄の子(甥)幸盛によれば美盛の父は、月々相当額を学費として送金することを楽しんでいる風であり、そのことは、子ども心にも強い印象として残っていると語る。当時無二の親友として心を通じ合わせていたのは河野与一であった。戦後河野はレジスタンス文学の最高傑作とされるヴェルコールの「海の沈黙・星への歩み」(岩波現代叢書)の翻訳、「学問の曲り角」の著作、河盛好蔵、桑原武夫等の師として知られる。

 矢崎は英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語、古典ギリシャ語、ラテン語、中国語をマスターし果 ては朝鮮語、サンスクリットをも解するに至っていた。東北大学での美学の講義のテキストはイタリア語の原書だったと言う。また彼の最初の出版は何と「印度文学史」(訳書)(1916年向陵社)であった。1923年から2年間のヨーロッパ諸国(イギリス、フランス、特にドイツ)への留学一フライブルグ大学に於いて、かの現象学派の泰斗フッサールから特別 の嘱目を受け、フッサールが自身の写真を矢崎に手交した一さらに1939・41年の再度にわたる中国出張を可能且つ有意義なものとさせたのも、彼のもつ圧倒的な語学力であった。
 安倍能成の「岩波茂雄伝」によれば「(岩波は)性格があったというのではないが、三木清に1924、25年頃留学の資を供したり、又矢崎美盛の留学費を助けたり、河野与一を愛してその生活を助けたり…」(P.455)している。三木は矢崎より3才、河野は1才年下であるから、矢崎が岩波の支援を受けたのは、23〜24年のヨーロッパ留学の折りであったろうと思われる。

 ユダヤ系ドイツ人Albert.アインシュタイン(1879〜1955)は、1905年、26才の時「特殊相対性理論」を発表、10年後に「一般相対性理論」を世に問うた。単に物理学を始めとする自然科学のみならず従来の宇宙観、世界観を一変させ、人類の哲学に全く新しい展望を開くこととなった。
東大でのアインシュタインの写真  近代最高の科学者アインシュタインは1922(大正11)年来日した。アインシュタイン招聘の夢が実現したのは、先ず第一に当時新興の出版社「改造社」社長山本実彦の執念であった。東大教授・「原子模型」で高名な長岡半太郎、アララギ派の歌人原阿佐緒との恋愛事件を因として東北帝国大学教授を辞していたアインシュタインの許で留学生活を送った経験もある石原純、東大哲学科教授桑木巌翼の弟で石原と並ぶ相対性理論の紹介者・九州帝国大学理学部助教授桑木※雄等の尽力が実を結び、長い船旅を楽しみながらアインシュタイン夫妻は、秋色深い神戸港に着いた。11月17日であった。
 1922年度ノーベル物理学賞受賞の報がアインシュタインに齎らされたのは日本への航海の途中であった。日本滞在の予定は約40日間とされていた。
 来日8日目の11月24日、アインシュタイン夫妻は、東京青山の根津嘉一郎邸を訪ねる。1万4000坪の宏大な庭園、簡素静謐な茶室、邸内の「根津美術館」に所蔵されている膨大な古画、浮世絵、陶磁器を興味深く見学する夫妻の案内役兼通訳となったのが、この年大学院を卒業し国学院大学教授となっていた矢崎である。
 「日本のプシュケ(魂・真髄・精神)を示す美しい証拠。私は妙にこの国独自な美術の根源的作品へと心惹かれた」と博士はその日の日記に書き残す。矢崎は翌年1月号の雑誌「改造」に「なつかしき人、アインスタイン」と題した約3000字の一文を寄せた。
 アインシュタインについて「その時、彼の脳裏に往来した思想は恐らくは『物象』の世界について考へる人のそれではなくて『生』の本質について思索する人、その人のものであったであろう」「彼はその静けさの中に確りと率直に立って居る。…この様な静けさは、壮大なる宇宙の調音にひたすらあこがれる人のみの静けさである。」と書く。
 戦後、わが国のアインシュタイン研究の第一人者金子務はその著「アインシュタイン・ショック/I」(1981 河出書房新社)の中で「画中の世界を内的に分析し構成する日本画的遠近法は、矢崎の説明によって、素早く(アインシュタインに)理解された。…日本文化に対する博士のこうした識見は、秀れた案内人・新進気鋭の矢崎の裨益があった。」と指摘し、矢崎に高い評価を与えている。
 「われわれが世界に面して、驚き、問い、見つめる立場にある時、われわれは芸術と科学の領域に入る。両者に共通なのは超個人的なるものと私欲を離れたものへの愛情ある献身である」との高い芸術観をもつアインシュタインへの説明役を若き矢崎がみごと成し終えた。アインシュタインが自然科学特に物理学・数学のみならず芸術一美術と音楽一に通じていることはよく知られていた。日本への長い船旅に同船した高名な外交官石井菊次郎[1917年、アメリカ国務長官ランシングとの間に結んだ石井・ランシング協定は中国の民衆の反発をかうことになる。第一次世界大戦中の代表的秘密協定の当事者]は、博士のヴァイオリン演奏に驚嘆した旨を船中から外務省に打電した。招聘者はそのことを強く念頭においたが故に矢崎を選んだとされている。
 なお、後年矢崎が桑木※雄教授の令嬢と結婚する経緯に、この「事件」は全く関与していないのだという。

[ # 採録者注:※は今のJIS漢字では表せない文字で、正しくは桑木あや雄の「あや」の漢字です。 ]