矢崎 美盛[やざきよしもり](1895〜1953)
1 「努力を以てその生命とす」
矢崎美盛は、1895(明治28)年8月13日、山梨県東山梨郡八幡村(現山梨市)市川398番地に生まれた。父恭盛、母富士野の次男である。
1894年7月に始まった「日清戦争」は95年4月17日の下関での講和条約締結を以て終結した。直後に、いわゆる「三国干渉」があり国内に少なからぬ動揺もみられたが、賠償金3億円(2億両)は国民を納得させるに十分で、戦勝気分覚めやらぬ夏、9年ぶりの赤児誕生に矢崎家は喜びに沸いた。長姉とは15才、長兄とは12才、次柿とは9才違いである。なお、後に妹が1人生まれ5人の兄弟であった。
笛吹川に西から流れ込む兄川、弟川が刻んだ東南にひらく扇状地は、肥沃な土壌に恵まれ、北から西南に連なる低山が、厳しい冬の季節風を柔らげている。市川地区は甲府盆地東北隅の静かな農村地帯である。
甲斐は、江戸時代初期を除いて「天領」約22万石の地である。江戸からは五街道のひとつ甲州街道が伸び、南からは富士川の舟運が発達し、予想以上に外の世界に開けていた。幕末以後の養蚕業の発展は、貨幣経済普及に伴う地主制の成立・拡大をもたらした。明治期以後、山梨県の小作地率は全国最上位にランクされる。数百ヘクタール(町歩)に達する巨大地主は極めて少数であったが、数ヘクタール級の中堅地主が輩出していた。「日下部駅まで約4キロ、自分の土地以外を歩く必要はなかった」とも言われていたのが矢崎の生家である。
父恭盛は、19世紀末から八幡村村会議員、東山梨郡議会議員さらに八幡村村長に推されている在地の豪農、名望家であった。
1908(明治41)年、美盛は山梨県立日川中学校に入学する。卒業したのは1913(大正2)年、同中学校第9回生である。同窓会名簿によれば、48人の同級生の内最終学歴を東京帝国大学とする者が2人、京都帝国大学が1人、陸軍士官学校、陸軍経理学校が各1人、早稲田大学が3人、慶応大学が1人であり、前後の学年と比較すると優秀な生徒が揃っていた。
当時、中学校では「学籍簿」と同時に「生徒明細簿」なるものを作成し、保存した。学籍簿には、氏名、族籍(士族、平民等)、居所、生年月日、学歴、入学、転学、退学、卒業年月日、入学試験の有無、さらに徴兵事故、保証人の居所、氏名を記すべきことが「中学校令施行規則第34条」に定められていた。矢崎の学籍簿もそれに基づいて作成・保存されている。
学習成績や身体検査(健康診断)等の記録が載るのは、生徒明細簿である。家族構成、品行、賞罰等の記入項目の多くに教師は必ずしも記入をしない。矢崎のそれには例外的に欄外に溢れる記載がある。
家族として祖母、父、母、兄、姉二人、妹計八人、保証人加納岩村瀧沢確道(知人)が記載されている。「父兄若シクハ本人ノ財産」の欄には「地価2,218円17銭 特別
3外25等中、特別3等」。性質は「鎮重ニシテ志操貞潔 胆汁質ナリ」、品行は「端正」とある。概評として「(第五年級時代)勤勉、着実、厳正、放胆、細心ノ諸点ニ於イテ感ズベキ生徒ナリ。二里有余ノ路ヲ往復シ遅刻モセズ日常ノ予習復習ヲ廃スル事ナク余暇アレバ小説ヲ作り評論ヲ書キ諸雑誌ヲ閲読シ更ニ卒業前ニハ写
真道楽ヲナセシモ之ガ為ニカッテ一日モ学業ヲ怠リタル形跡ナシ。実ニ少ナキ時間ヲ以テ多大ノ仕事ヲ為スニ利用スルニ腐心シ之ヲ実行スルニ至リテハ驚クニ堪エタリ。級中最モ敬愛セラルル人物ニシテ運動ニ堪能ナラザレドモ身体強健未ダカッテ頭痛ヲ知ラズト云フ。天才ニアラズ努力ヲ以テ其生命トス。将来文芸ノ評論家タルニ適センカ然ラズンバ夫レ政治家カ。悪評スル者アリ『近来矢崎ハ生意気ニナリタリ』ト。余以為ラク矢崎ハ好学ノ士ナリ評者ノ言ハ彼ガ好学ヲ曲解スル者ナリト」。前後数学年中に、このような長文かつ絶賛の概評を得た者はない。
学業成績は五年間首席を通した。1年98人中、2年84人中、3年70人中、4年48人中、5年47人中何れも第一席であった。修身・国語(3科目)・英語(2科目)・歴史・地理・算数・代数・幾何・三角・博物・物理、化学・法経・図画・唱歌・体操・操行等67項中評定「乙」は2つ、他は総て「甲」である。乙とされたのは1年、4年次の図画であったのが暗示的で興味深い。
5年次の身体検査によると身長5,32、体重15,25、胸囲2,66と記録されている。4年次までのメートル法がこの年から尺貫法に変わったのであるが、変更の理由は定かではない。尺貫法表示は25(大正14)年頃まで続く。矢崎は当時の平均的体形であったと言えよう。因みに、彼が在学中の旧制日川中学校の校長は初代の中川太郎、5年次の担任と思われるのは須山太郎である。
1913年、超難関校旧制第一高等学校文科乙類に入学、同校を経て東京帝国大学文学部哲学科に進んだ。
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