4 「炎の絵」
 40年、中込は妻美恵子の伯母に当たる琴(こと)の夫である哲学者西田幾多郎邸を 訪ねた。持参した手塚の「向日葵」「工場街」をみて、西田は遺作展の開催を薦め支援を約束した。長兄旻や里見勝蔵の助力もあって7月、東京銀座資生堂で「手塚一夫遺作展」が作品の大部分38点を蒐めて開催された。
志村ふく美「一色一生」の表紙 遺作展を見た東大の美学科教授児島喜久雄は、朝日新聞に「彼には無論トラディションも何もない…生得の鋭いデッサンがあった…造形的天稟は立派な天稟である。似而非画狂が多いなか、彼こそ本当の画狂である…彼の夭折を痛惜する」と評を寄せた。このこともあってか予想を遥かにこえる来場者があった。その中に文学者会津八一、56年に29才で夭折した画家小野元衛、その妹で染織家となる志村ふくみがいた。画家の横井弘三も来た。
 志村ふくみの「一色一生」は、83年度の「大仏次郎賞」を受賞した。選者は加藤周一、都留重人、井上靖等で、同時受賞は「新しい人よ目ざめよ」の大江健三郎だった。「一色一生」に収められた随筆「兄のこと」の中に「…文化学院での生活は兄にとって激しい刺激であった。…兄は、不遇な画家村山魁多、手塚一夫、長谷川利行を熱愛し、さらにルオー、モジリアニ、劉生、楢重に心からの尊敬を抱いていました」と書いている。

 遺作展はその秋、甲府の百貨店松林軒でも開かれた。41年、日本は太平洋戦争に突入した。44年秋から東京への空襲が激しくなったので、中込は所蔵する手塚の絵の一部を甲府、長野に疎開させた。西荻窪に残った絵と甲府に疎開した絵は共に空襲で焼失した。
 東京医科歯科大学心理研究室に預けていた何枚かは、静岡高校時代の親友松本啓之助が、代々木駅前で開いていた書店兼喫茶店「人人」に飾られていたが、「人人」からの出火(51)によって、戦後まで残った貴重な絵も炎の中に消えた。

 中込は79年、手塚との交友を中心にまとめた回想録を上梓した。書名は「炎の絵」とされた。松本と共に静岡高校以来トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」の一節「われ眠らんと欲すれど、なれは踊らでやまじ」を口ずさんでいた親友山形鋭一郎一静高を放校された後、慈恵医大に学び戦後は民主的医療機関等で医師となっていた一は、「炎の絵」の出版記念会の前年世を去っていた。葬儀の際の中込の「別 れの言葉」を涙なしに聞いた者はいなかったという。
 79年9月5日の出版記念会は、高橋義孝、相良守峯、手塚富雄等母校東大の教授・名誉教授の外、三河台小学校や旧制松本高校の教え子が何人も加わって宴は盛り上がった。上村英夫等の松高卒業生は「春鶯囀」「旭菊」等の甲斐の御酒に酔い、「…静けき夜半の雪崩れ 榾の火赤くさゆらげば…」と旧制松本高等学校寮歌を歌った。
 会の半ば、手塚康夫が会場に現われた。康夫は一夫の弟である。50歳を過ぎてから油絵に親しんだ康夫の絵「川べり」の二科展入選がこの日発表されていた。
  康夫は、亡き兄に代わって中込への感謝を述べ、兄が愛唱していたという「からたちの花」を歌った。