3 「画狂 手塚一夫」との出会い
 1936年秋、甲府市内の商工会議所ホールでは「甲斐美術展」が開かれていた。生家に帰郷していた忠三がその展覧会を見にいった。会場の片隅にあった一枚の絵に引き寄せられた。曇り日の夕暮の薄い光の中に立つ建物が、逞しい線、ほのぼのとした色で描かれていた。1911年生まれの手塚と10年生まれの中込の出会いである。
 手塚は、中巨摩郡百田村(白根町)上八田の養蚕農家に長男として生まれた。小学校時代から描くのが好きだった。八田高等小学校を卒業後一時甲府の印刷会社図案部に勤めたが、農業に専念するためと体調不良により退社し、ひとり日本画を学んでいた。28年、前年から始まった「金融恐慌」によって農民の生活は困難を極めた。山梨の農村も例外ではない。やがて、手塚は喀血する。結核に冒されていたのだった。
手塚一夫の絵「自画像」 病状の進行が緩やかだったこともあって、養蚕と絵画一次第に洋画に傾斜し始めていた一の日々の数年間が続いた。養蚕収入は大家族の生計維持には不十分で「絵の具・キャンバス」の購入はままならなかった。そうした中で描かれた2枚の絵が甲斐美術展に出品されたのである。
 手塚の作品に衝撃をうけた中込は、直接手塚に逢い画業への「支援」を申し出た。
 1937年4月から、中込は南千住第四瑞光小学校の代用教員となった。5月、手塚を本郷の下宿に迎え二人の共同生活が開始される。寝食は言うまでもなく、肌着までも共用する日々だった。手塚の猛烈な創作意欲は「枠から外したキャンバスをじかに畳においてその上に足をふんばってのしかかり、絵の具だらけになって描いていた。チューブのままピュッと飛ばす絵の具は天井までとんだ」。美術教育者であり優れた画家でもあった里見勝蔵にも引き合わせた。

 この頃、作家阿部知二の来訪があった。知二は、前年発表した「冬の宿」によって、「主知主義」の旗手として脚光を浴び始めていた。文学界ではプロレタリア文学が、激しい迫害やプロレタリア文学者内部の不幸で非生産的な対立によって急速な退潮を示していた。「冬の宿」は、都市インテリ層を中心に、清新な新文学として圧倒的支持を受けた。知二は、中込の兄純次のいる「文化学院」の講師でもあったから、寛・晶子が媒酌した純次の結婚式以来忠三と面識があった。知二は純次と忠三に一夫をからめて長編「幸福」を書き上げた。島木健作は、「一夫の如き農村青年は自分が描くべきだった」との書簡を知二に送った。ただし、中込兄弟、一夫とも、この作品に高い評価を与える心境にはならなかった。知二は、3年後「野の人」を書き忠三等の「批判に答えた」が、その時、すでに一夫は世を去っていた。

 忠三と手塚は、本郷、新小岩、船掘と転居しながら「極貧ながら充実した」共同生活をおくる。船掘の「銚子屋」の別棟の小屋に異才長谷川利行が転がりこんで来た。1ヵ月余り、3人の共同生活になった。生活費は忠三の教員としての給与が総てであった。忠三の勤務校は葛飾松江小、麻布三河台小と変わりその間に正式教員(訓導)にはなっていた。

忠三の家族との写真 手塚の作品はそう多くはない。「ニコライ」「時計台」「工場地帯A,B」「工場」「居留地の教会」「倉庫」「真昼の家」「蓮華」「玉蜀黍」「向日葵」「酒倉」等の秀作が描かれた。上京して1年3カ月、宿病はひそかに、しかし確実に手塚の肉体を蝕んでいった。38年8月、中込の結婚が迫ったため、静養も兼ね手塚は一旦八田村に帰った。12月、忠三は、東大での恩師相良守峯教授の媒酌で兄純次の妻の妹角田美恵子との結婚式を挙げた。甲府市内の医師であった角田家は東京西荻窪に家屋敷を持っていた。そこを新居と定めた忠三は若干の改装を行なって一夫のアトリエとすることにしていた。

 「黄金の空気を吸って私の身は黄金色になります」「故郷は満ちあふれる光の洪水です。新鮮な緑は生命の力のもり上がりです」と一夫は忠三に書き送り、「七里岩風景」「八ツ岳の裾野」「秋の山」「弟」を描いて再度の上京を期していた。この秋11月、「山梨美術協会展」で「煉瓦の家」「ニコライ」によって手塚は「山梨県知事賞」を受けた。
 39年3月末、甲府駅で手塚と落ち合って、西荻窪に向かうことにしていた中込夫婦は駅頭で一夫を見て愕然とした。青黒く、頬がこけ、高熱に目は充血し、息は喘いでいた。新婦の実家角田医院に連絡し後事を託した。手塚の上京は取り止めになり、八田村での療養が続いた。故郷で描いた数点の作品は、中込が預かって西荻窪まで持っていった。5月22日、手塚は父母や弟に看取られて息を引き取った。最後の作品は、「狂人」。