5 日本共産党との出会いそして別れ
 「横浜事件」・敗戦の後、間もなく中澤は日本共産党に入党し、代々木の党本部に勤務する。そして「赤旗」主筆だった志賀義雄の秘書とされ、激務をこなす。居候先の目黒の兄道夫宅を早朝に車で出、徳田球一と志賀の住む阿佐が谷から代々木の党本部へ、さらに国会へ。志賀の赤旗「主張」を口述筆記、整理して編集局へ届けるのも仕事。夜は朝と反対のコースで深夜に目黒に帰る。道夫が「野放図な」弟に何のクレームを付けなかったばかりか、義姉千枝子は早朝の食事から深夜の夜食洗濯まで引き受けてくれた。「兄夫婦にはもうどんな感謝の言葉もない」。
 半年近くの秘書生活から赤旗編集局に移った。政治部・地方通信部・国際部と変わる中で中野重治、伊藤律、野坂参三等と接触するが、同時に自身の考えと党のそれとの間のギャップの深まりを自覚せざるを得なくなっていった。
 コミンフォルムの野坂批判、構造改革路線問題、ソ連の原爆実験、所感派と国際派の分裂等の中で「ヒューマニストではあるが党派性がなかった」彼の周囲にはだれもいなくなった。「キリスト教的社会主義」と「共産主義的理想主義」・「イエスの愛とマルクスの階級闘争」が重なり合わなくなったと感じた。さらに、共産党の科学的社会主義は「心情の聡明さ」を大切にしているのかとの疑念に悩んだ。
 結局、「自らが共産党に同調する必要はない、共産党が私のヒューマニズムに近づいて来ればよいのだ」。こうして中澤は党から離れ、ルンペンプロレタリアになった。20世紀は後半に入り、彼は40歳を目の前にしていた。

中澤護人夫妻の写真
護人、笑子夫妻 夫人提供

 それ以前の47年3月に渋田見笑子と結婚していた。彼女の家庭も田園調布教会に属するクリスチアンであり、次兄の厚などの取り計らいがあった。二人は共産主義の目指すものはキリスト教と相通 ずるとしたイギリスのカンタベリーの大司教ヒューレット・ジョンソンの主張に共感した。野坂参三の「愛される共産党」発言も幸いした。しかし、その後の日本共産党をめぐる内外の情況はまことに複雑怪奇、動揺混乱を極めた。
 笑子は,兄道夫・千枝子の勤務するNHKの資料カード整理や義弟網野善彦のいた常民文化研究所の筆写によって得る僅かの収入で家計を補った。「人はパンのみにて生くるにあらず」とうそぶく夫、「されどパンがなければ生くる能わず」と抗議する妻との、振り返れば微笑しい諍いもなかったわけではない。