55 酒折宮所見

その昔景行天皇の皇子日本武尊、東夷征伐の歸路暫し御休憩し給ひし時「邇比婆理津久波袁疑弖伊久用加泥都留」[# 採録者注釈 「新治筑波を過ぎて幾夜かねつる」]と詠じ給へるに、火燒の老人御歌に續きて「迦賀郡倍弖用邇波許々能用比邇波登袁加袁」[# 採録者注釈 「かゞなべて夜には九夜日には十日を」]と連歌をものされた由緒深き舊蹟である。
上古に於ては國中の里程表はこゝを基準にされ、名實共に當國文化の中心地であつた。後方の不老園は梅の名所として、鏡臺山は月見の場所として其の名を知られてゐる。
宮の西には山崎の石切場、名刹善光寺等がある。この附近一帶は見渡す限り葡萄園で埋められてゐる。

(佐野 武)


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