5 戦乱のときを生きる
 1941年、中込は東京麻布の三河台小学校で教鞭をとっていた。太平洋戦争が始まった12月の末、担任クラスの新学期からの副級長に「中国人」の優秀な子を選んだ。このクラスを担任して3年目になっていた中込には何の躊躇もなかった。ところが、校長は驚愕した。日中戦争は「開戦」から4年、泥沼状態が続き、その上アメリカ・イギリス等にも「宣戦」した矢先「敵国人の子をクラス副級長にするとはなにごとかが校長の論理であった。後に、中込は当時の状況下では校長が難詰するのも無理からぬ ことであったろうと述懐する。
 中込は校長に辞表を叩きつけた一静謐な中込の生涯唯一の激情の吐露であった。記念会当時東京芸術大学助教授・カリフォルニア大学客員教授である長沼宏光は三河台小学校の教え子、「貧しいが故に卑屈になっていた生徒を愛護し、その持つ才能を助ける…何回もお宅に伺い、皆で奥様にいっぱいお菓子を頂いた。そして手塚の絵を見た」。続けて「校長と論争された翌日、仙台平の袴を穿いて来られ『俺は今日から罷めるぞ』とおっしゃった時の驚き」と出版記念会の席で語った。
 職を失った中込に、「中央気象台技術官養成所」講師の職を探したのは、恩師・媒酌人相良守峯だった。

 長兄旻は、弟忠三のためにと荻窪新神明町に家を建てた。44年2月完成し転居した直後「赤紙」が来た。33才、ひ弱な兵士は除隊となった。すでに4人の子をもっていた一家にもあの「食料難」が猛然と襲いかかる。

 そんなある日、中込家に標政英が訪ねてきた。「治安推持法」による「執行猶予」の判決期間が過ぎた標は、生家に近い石和町の「笛吹川廃河川」を農地に変える苛酷な労働の日を送っていた。標の妻は、甲運村(現甲府市)、父は県議会議員である名望家山本家の次女とし恵である。甲府高等女学校在学中から姉とともに革新的な行動で標等の非合法活動を助けていた。しかし、農作業に無縁だった令嬢が3人の子を抱え、周囲の「冷ややか目」に抗して開墾作業を行なっていた。
 標は、「にわとり2羽」を吊してやってきた。にわとりは巧みな手捌きで料理され、胃袋の中に入っていた大豆は、水分をたっぷり含んで柔らかにふくらみ、皆から歓声が挙がった。近くに住む松本啓之助も呼ばれ、中込家は「春鶯囀」の香に包まれての「饗宴」に夜が更けた。しかし、これは「最後の晩餐」でもあった。標は間もなく召集され、一兵卒として済州島沖で戦死した。
 45年、中央気象台の一部が長野県上諏訪に疎開した。忠三は、単身赴任を決意し妻子を妻の実家がある甲府に疎開させた。一夫の絵の三枚が甲府に移った。また何枚かが「爺っさ」の家に運ばれた。爺っさの家は諏訪郡本郷村立沢にあった。毎年の冬「春鶯囀」の蔵にやってくる杜氏である。忠三はそこから気象台に通勤した。
 7月7日に甲府はB29の空襲を受け市街の大部分が焦土と化した。角田医院とともに「三枚の絵」も炎の中に消えた。妻の美恵子は「神様があなた方を必要だと思われるならお救い下さる」と5人の子供を無事避難させた。この夜の空襲による死者、行方不明1,124人、重軽傷者、1,244人と記録されている。