4 「横浜事件」
1939年、東京帝国大学法学部を卒業した中澤護人は、わが国最大の鉄鋼メーカー・日本製鉄株式会社に入社した。友人江森巳之助は戦後「経団連」に入った。彼は「マルクス主義者だった者が、経団連国際通商部長では恥かしい限りだ」と言って経団連史編纂事業を定年まで続けた。中村正也は、静岡磐田の茶園を継ぎ、地域の共産党を支援しつつクレームをつけ「見付の大久保彦左衛門」と愛称された。佐藤義弥は、弁護士になった。労働問題や人権問題に取り組み自由法曹団団長にもなった。離党・除名後も「マルクス主義」に夢を持ち続ける一そうした友人達だった。森数男は、尾崎秀実の「支那問題研究室」に入った。「横浜事件に関わりが生まれるきっかけである。
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いわゆる「泊事件」とされた写真
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事件の発端は、41年、太平洋戦争開戦(41,12)の直前にアメリカから帰国した日本人川田寿、定子夫妻の逮捕である。慶応大学経済学部卒の川田は約10年の間在米し、帰国後は「世界経済調査会」の理事であった。神奈川県警特高は開戦後の抑留者交換船で帰国(42年)した者から、アメリカで労働運動に参加していた川田の存在を知り、帰国後一年半も経過した夫妻を「アメリカ共産党」との関連容疑を口実に逮捕し(42,9)、更に世界経済調査会、満鉄等にいた知人や兄弟等検挙した。
すでに明治期から始まっていた言論、出版、思想への統制・弾圧は1925年の「治安維持法」制定、28年の同法改正の緊急勅令・特別高等警察の拡充、強化以後峻烈さを増していった。小林多喜二の「蟹工船」を掲載した雑誌「戦旗」は32年9月号を以て姿を消した。河上肇、大塚金之助、野呂栄太郎らの執筆が禁止されるなかで岩波書店の「日本資本主義発達史講座」がやっと完結した(33)。この年、滝川事件、35年「天皇機関説」事件が起こる。三井甲之、蓑田胸喜の「原理日本」の国粋主義の影響力が強化され「大日本生産党」「愛国勤労党」「国民社会党」等の「右翼勢力」の台頭が見られるようになった。
36年、平野義太郎、山田盛太郎が検挙され「講座派三太郎」が壊滅し、翌37年、「人民戦線」事件で鈴木茂三郎、青野季吉等に続いて大内兵衛、美濃部亮吉、有沢広巳を始めとする「教授グループ」が逮捕される。日中戦争が拡大していく中で矢内原忠雄が「中央公論」に発表した「国家の理想」・岩波で出した「民族と平和」が削除・発禁措置をうけ、矢内原が東大を去った(37年)。39年には穏健な自由主義者河合栄治郎が追われ、40年津田左右吉は「神代史の研究」等の著作によって発行者岩波書店社主の岩波茂雄と共に出版法第26条違反として起訴された。これまた三井・蓑田等の「原理日本」の弾劾に基づくものだった。
この間には、佐野学、鍋山貞親に代表される「転向」があり、42年には「言論報国会」(会長=徳富蘇峰)、「日本文学報国会」、「日本編集者協会」等が組織され、中央公論社、改造社、岩波書店、日本評論社等の経営者・編集者への圧力、執筆者制限、用紙制限が行なわれた。内閣情報局、陸・海軍報道部の意向を受けたものだった。
42年細川嘉六の「世界史の動向と日本」が「改造」(8・9月号)に掲載された。この論文は、「内閣情報局」の厳重な検閲は通過していた。好評で販売数も多かった。にも拘らず、非政府的ジャーナリズム等への圧力を強めていた陸軍が「共産主義的」内容ありと主張、それに基づき警視庁が発禁とし、細川を治安維持法違反として逮捕した(42,9)。
世界経済調査会のメンバーの家宅捜査の中で一枚の写真が発見された。富山県泊温泉の一旅館の中庭で細川を中心に二列になった7人の人物が写っていた。後列中央の細川を囲み、満鉄調査部の西沢富夫・平館利雄、中央公論社の木村亨、東洋経済新報の加藤政治、改造社の相川博・小野康人である。泊温泉は細川の出生地で、自著「植民史」出版の成功を祝賀する宴を「紋左旅館」で開いた。全員が浴衣姿の写真を特高は「日本共産党再建準備会」の証拠写真とした。いわゆる「泊事件」である。
世界経済調査会と細川・泊事件の双方向から一挙に大量の逮捕が始まる。43〜44年を中心に45年5月までに検挙、逮捕者は90人に達する。概括すれば、世界経済調査会、満鉄調査部、泊事件関係、昭和塾、中央公論社、改造社、日本評論社、朝日新聞社、岩波書店の系列に分類できる。
日鉄八幡にいた高木健次郎は、42,5月出張先の広畑で中澤を知った。中澤は静岡高校時代以来の親友であり当時大東亜省に勤務先を変えていた森数男を紹介した。これをもって、中澤は昭和塾に関わりありとされ、44年1月29日逮捕される。
細川が講師を勤めていたのが「昭和塾」であり、この塾は「昭和研究会」の外部組織だった。昭和研究会は細川、尾崎秀実、笠信太郎、三木清等を中心とした学者グループであり、政治的には細川のつながりで近衛文麿に近かった。近衛に対抗していた平沼祺一郎に密着を企図した当時の内務省警保局長唐沢俊樹は、近衛派に打撃を与えることによって自身の栄達の実現を図った。そのために神奈川県特高をして大規模な「でっちあげ=フレームアップ」を強行させたのである。
昭和塾関係者の当時の職場・最終学歴は
細川=評論家・東大 |
高木=日鉄本社・東大 |
桜井=軍需省・東大 |
浅石=中央公論・東大 |
山口=日本鋼管・一橋大 |
山田=古河電工・法大 |
森 =大東亜省・東大 |
勝部=日鉄本社・九大 |
白石=糖業連・東大 |
渡辺=日鉄八幡・東外大 |
小川=古河電工・法大 |
和田=中央公論・慶大 |
新井=中央アジア協会・東大 |
そして中澤、日鉄本社・東大である。 |
中澤は東京の大岡署に逮捕留置されたのち横浜伊勢佐木署に移された。当時の住所は、東京都目黒区下目黒の中澤道夫方であった。事件関係者に対して行なわれた拷問、暴行は凄惨を極めた。拘禁中に4人が、出所直後に1人が死亡している。
昭和塾関係では浅石と和田が獄死、山口と勝部が一時重態となった。敗戦後、神奈川県警特高の28人が細川等30余人によって「特別公務員暴行傷害罪」で告発され、証拠湮滅に狂奔したにも拘らず内3人が最高裁でも有罪とされた(51,3,28)。警部松下英太郎、警部補柄沢六治、警部補森川清造。森川の判決当時の本籍は西八代郡上九一色村古関1678番地、1914(大正3)年1月25日生れであるから37歳、拷問を行なったのは30歳前後、逮捕者達の多くと略同年代であった。
中澤は約5カ月後の7月初旬、起訴留保で釈放されるが、この裏には検事山根隆二の大学での恩師大島正徳の尽力があったと思われる。大島は、山梨県立甲府中学校(現甲府第一高等学校)において名校長であった大島正建の甥(兄の子)であり、東京帝国大学助教授として倫理・哲学の講座をもっていた。岩波書店刊行の「大思想文庫」第15巻のヒューム「人性論」の著者であり、後に東京府(都)の教育局長等に就任する教育学者でもある。護人の父毅一は、甲府中学校在学中大島正建に深く心酔し、動物学の道を選んだという。毅一の妹なおが大島正徳に嫁した。護人にとって正徳は義叔父に当たる。
釈放直後の7月7日には甲府連隊(東部63部隊)に入営すべしとの「徴兵召集令状」を受ける。翌年8月15日、日本はポツダム宣言を無条件に受託した。奇妙な事に治安維持法の撤廃も政治犯の釈放も「国体護持・国民総懺悔」の中で政府によってサボタージュされてしまった。
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